「一緒に色々と考えてくれるね」とお客さんが笑顔になって頂ける事が私の喜びです
はじめまして!
「気配りが出来る人」と言われる
保険代理店業
小川健一(おがわ けんいち)です。
「一緒に色々と考えてくれるね、ありがとう」と
お客さんが笑顔になることが、わたし...
はじめまして!
「気配りが出来る人」と言われる
保険代理店業
小川健一(おがわ けんいち)です。
「一緒に色々と考えてくれるね、ありがとう」と
お客さんが笑顔になることが、わたしのよろこびです。
そのために、「人それぞれ考え方・置かれている環境は
違う事を踏まえるよう」
といつも聞くことを心がけていきます。
なぜ、わたしがこの仕事をしているのか、その「想い」を聴いていただけますか?
「自分にしか出来ないことを探していた」
家業の経営がおもわしくなく幼稚園(当時、効率の幼稚園はなく私立のみだったのでお金が掛かったのです)には1年しか行っていなかった自分。
とにかく幼稚園では友達は誰も居なくて居場所もなく、途中で勝手に家に帰ってしまったりしてました。
そんな引っ込み思案で人見知りな自分も、小学校中学校と鉄道が好きで休みの日は父から譲ってもらったオリンパス製カメラを片手に鉄道好きが縁で友達になった同級生とあちこちの電車に乗りに行ったり、毎年のように父親と一緒に京都の梅小路蒸気機関車館(現在の京都鉄道博物館)に連れて行ってもらったりブルートレイン(夜行列車)に乗ったり。今思えばオイルショックの影響もあって家業の家具製造業がおもわしくなかった中、随分と無理を言ったなあっと。
(今でいう「撮り鉄」「乗り鉄」って趣味ですね)
プラレールを初めに、HOゲージ・Nゲージの鉄道模型にお小遣いやお年玉は全て使ってました。気づけばミカン箱何個分でしょうか。
高校に進学すると車に興味を持ち、授業中にもかかわらずノートに車のイラストを描いたり(絵心はなかったの片手に定規をもってせっせと描いてました)。
※この書き溜めたノートのイラストが就職の時に内定をもらうきっかけになるとは夢にも思わず描いてましたね。
そんな私ですが、常に5才年上の姉に対する劣等感を持っていたかもしれません。
小学校中学校と校長先生や教頭先生にも覚えてもらっていましたが、それはいつも「〇〇さんの弟さん」と呼ばれていました。
姉は常に生徒会の役員でしたし、成績優秀で芸術センスもあって・・・。
本人は自覚意識はなかったようですが学校で目立つ存在でしたね。
一方で自分は真逆。下の名前は果たして担任の先生が覚えていたのかも怪しい限り。
特段何かが出来る訳でもなく、成績も悪くはないが、かといってずば抜けている訳でもなく。
夏場の水泳の授業はクラス対抗リレーのアンカーにはなりますが水泳部の代表にはなれないレベル。
何をやっても実に目立たない存在、その状況は高校でも変わらず目立たないままでした。「居ても居なくても大勢に何の影響を与えない立ち位置」でした。
年に1回あるか無いかの中学校の同窓会、同級生が声を掛けてくれて名前も覚えてくれていて。有難い限りです。
「人と比較することで自分を見失っていた」
そんな私も親のおかげで一浪を経て大学まで出してもらい、今や世界有数の自動車会社の内定を蹴って、関西に本社を置く大手電機メーカーに就職。
※就職したかった自動車会社だったのですが、やりたかった仕事には就けないことが分かったので辞退したのです。当然、大学の教授には2時間説教食らいました。
当時はバブル崩壊直前のピーク、大勢の新卒の1人。研修時に今までにないビデオカメラの発案を出し「自分にもできるじゃないか!!」と思ったのもつかの間、そのビデオカメラが開発部門の私は全然知らないとある人物が発案した形で「業界初!!」として華々しくデビュー。自分の存在を否定された思いをしました。
※学生時代に考えた事だったので、当時もし特許を申請しておけば今や億万長者だったかも、です。
それからお誘いを受けて地元企業が加盟しているファーストフード業界に7年身を置き、毎年過労で入院する先輩方を見て、そしてあまりの体力消耗戦の毎日に一旦離職し半年間何もしない期間を経てご縁があって自動車業界に。
仕事はきつかったですが伸び盛りの会社でもあり、とにかくやりがいがありました。
その中でも数字に見えるもの、形になるものは勝手に競争して必至になって挙げてました。それなりにミスもしましたが、それが許される環境。
とにかく自分の存在が確認出来る事があれば必死でした。
正直身体はきつかったですが、実感を感じる毎日で仕事が楽しい毎日でした。
「どんなささいなことでも相手のことを考えて、その人が求めていることをサポートする」
そんな忙しくも充実した毎日を送っていた2008年4月28日月曜日、GW前日だった朝、会社のトイレで用をすまし手を洗い、ふと目の前の鏡をした瞬間、何が起きたかわかりませんでした。
「目の前に映る自分の顔が・・・曲がってる」「右顔面に力が入らない」
右半分がダランと力なく目じりから頬から唇から下がっているのです。
何が起きたのか全く理解が出来ず、直ぐにパソコンで「顔」「曲がる」で検索・・・「顔面麻痺」という言葉。
直ぐに自宅近くの総合病院に電話を入れて症状を伝えると
「今日か明日の午前中、来られますか?」と聞かれ、明日行く旨を伝えました。
とりあえずその日は仕事をし、極力人と会話はせず外に出る時もずっと下を向いてました。
翌日、病院で案内をされたのは神経内科。そして担当した岸先生から「ベル麻痺です、顔面麻痺の一種で顔を動かす神経が切れてしまっています」と。
極度のストレスで発病すると言われ、思い当たる節はありました。
さて、GW明けの出勤日からマスクをして眼鏡をかけて極力顔がわからないようにしていましたね。
会社からは「しばらく休んでいいよ」と言って頂きましたが仕事に没頭して気を紛らわせてました。
それでも、ある日の電車の車内で吊革をつかんで立っていると、目の前に座っている小さな子供が、しばらく私の顔をじっと見てから、指をさして
「怪物だ!!」
と。
子供は正直ですね、悲しさを通り越して納得してしまいましたから。
それから1年後、昼休みに日比谷公園を散歩しながら当時加入していた生命保険会社に電話を入れ、今回の経緯を伝え、保険金の請求をしようと思ったら・・・。
「それは保険金の対象外ですのでお金は出ません」と。
「何かあってもお金が出るから安心ですよ」と、どのような保障内容の保険かも理解していなかったので、風邪とか以外の病気なら何かしらの保険金は出るものと思っていたのです。
当時は保険の外交員は今と違って保障内容について説明義務はなく、保障内容よりも「毎月幾ら(合計で2万円ほど払っていました)の保険料」「お金が貯まります」「親御さんの為」「社会人として保険に入るのは常識」だけ連呼されていたのは記憶しているのですが。
今思えば笑ってしまうような事ですが、それが一般の人の保険に対する認識かもしれません。
それでも、保険会社からあっさり言われた事の冷たさを覚えています。
そんな私が会社の方針転換と部署移動した先の上司から顔面麻痺の事を精神病として扱われたことのショックの大きさ(あなたは精神病で通院しているんでしょ、休職した方がいいのでは?と言われたのを覚えています)をきっかけに転職を考え、色んな職業の話を聞き回っていました。
その中で今の保険業の話を聞いた時に以前の保険金請求の時に感じた「冷たさ」と「無知」を思い出し、思い切って転職をしました。
余談ですが、保険会社に就職すると母親に伝えた時、
「昔ね、お父さんが会社契約で生命保険に入った時、その保険会社が契約祝いで宴会を催してくれてね、どんちゃん騒ぎだったんだよ。でも会社の経営が危なかった時、保険を解約して戻ってきたお金で助かったっけね」と。
昔の保険はどれだけ保険会社が儲かったんだろうか?契約祝いの宴会って今じゃ想像も出来ませんが。
40~50年前、確かに今よりも全然良い利率でしたし今ほど保険料比較もなかった時代ではありましたが。
それから8年、外資系保険会社から始まった保険業も保険代理店で5年超。
数字を上げる事の難しさ、今でも保険屋と分かった瞬間に壁を作る方も正直いらっしゃるのですが、少しでもお役に立てていればと思います。
最後に、
わたしからのこの仕事にかける一番の想いです。
「人それぞれ考え方・置かれている環境は違う事を踏まえるようにする」想いで仕事をしていきます。
小川 健一
年齢
50代
出身地
千葉県
趣味
テニス・自動車(ディーラー)を見て回る
得意な相談ジャンル
社会保険・税金の効率化、保険の新規加入・見直し、家計・固定費の見直し、資産形成・老後の年金対策・少額投資(iDeCo・NISAなど)
保有資格
FP(3級)、生保大学課程
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